最終日記 2/13

「the bicycle」をやっていて、とても不思議に思ったことというか、奇妙な現象を二つ発見しました。
一つは、アフタートークでもしゃべりましたが、エドワード・ゴーリーの人形劇にお客様がたくさん集まってくれたこと。
しかも列まで作って並んでいただきました。
もちろん、プロデューサーの塚田千恵美、事務局の佐野澄絵コンビの制作力の為せる偉業ではあります。
しかし、それにしても、不思議で不思議でしかたありません。
このムーブメントを仕掛けた、河出書房新社の編集者に脱帽するばかりです。
もう一つは、「優雅に叱責する自転車」を誰も演劇にしようとしないこと。
と言うか、人形劇にしようとしないこと。
まあ、三年前に私達が先にやってしまっているので、その影響もあるかもしれませんが。
主役が自転車。
物体です。
感情があってないようなものです。
感情のないものを演じる。
人形という物を遣う、このスタイルだから出来る演劇です。
本屋で原作を目にした瞬間、これは人形劇になると確信しました。
その勘は間違っていなかったと、公演が終わって改めて実感しています。
長いような短いような、「the bicycle」のブログを書くのも、今日が最後になりました。
今までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
演出 石川哲次
演出日記 2/12

「ユーバートが先に自転車の座席に飛び乗ったことを正当化するのに苦労しました」
10日15:00のアフタートークで、直後お客様がきょとんとしていたシーンです。
「どっちでもいいんじゃない?」と思われたのでしょう。
言葉足らずだったことにはすぐに気づいたのですが、あくまで柴田元幸さんが主役ですので、私が長くしゃべるのもどうかと思い、そのときはそのままにしました。
というわけで、本番で出来なかった補足を、ここで。
「優雅に叱責する自転車」に登場するエンブリーとユーバート。
エンブリーはsisterで、ユーバートがbrotherと原文では表記されているだけですので、姉弟か兄妹か判別がつきません。
何となく、柴田さんも私も姉弟だと感じるのですが、明確な根拠はありません。
さて、この場合、読者はどう解釈すればよいのでしょう。
どう解釈してもいいのです。
または、解釈しなくてよいのです。
ゴーリー作品に、理路整然とした答えを求めるほうが間違っています。
しかし、残念ながら、これでは演劇は作れないのです。
「姉かもしれないし妹かもしれません」「どんな性格かはよくわかりません」「何歳か不明です」「生い立ちや家族構成はわかりません」などと書かれた台本を手渡したら、演技者は混乱します。
役を客観的に理解することから、役者としてどう演じるかの思考が開始するからです。
こんなとき、エンブリーならどうするか。こんなとき、ユーバートは何と言うか。
それぞれの役を知っておかなければ、まったく動けなくなってしまいます。
だから、すべてにおいて、理路整然とした回答を演出は用意しています。
ゴーリーの作品を私なりに解釈する、これが演出としての初めての仕事でした。
さて、「the bicycle」(60分)のなかで、自転車パートの占める時間は30分もありません。
さらに、二人の個性を発揮できる場面となると、15分足らずでしょうか。
この短い間に、セリフの手助けを借りずに、二人のキャラクターを設定しなくてはいけません。
自然と、あまり複雑な設定はできなくなります。
と言うか、複雑な設定を必要とする原作なら、こんなスタイルは選択しません。
私は、てきぱきしてきつい性格の姉と、それよりのんびりとしてる弟、という設定を選択しました(と言うか、原作を読んでそんな感じがしました)。
冒頭、クローケーの槌で二人が遊ぶ場面、必ず姉が新しい遊びを発見し、弟がその後につづく、という設定を徹底させました。
納屋の住人やオベリスクに最初に気づくのも、必ずエンブリーです。
そのなかで、自転車の座席に先に飛び乗ったのがユーバート、という原作に明記された事実に、私は困りました。
別にそういうことは普通にありうるのですが、単純明快に割り振ったキャラクター設定に傷がついてしまいます。
可能なかぎり単純に芝居を作り上げたかった私は、これで相当悩みました。
結局、肝心なところで勘の良いのがユーバート、というご都合主義的解釈を加えました。
「the bicycle」では、最後二人に馬乗りになって、旅を続けさせました。
「They are riding the bicycle」から「They are riding the horse」へ。
このときも、馬にさせられたのがエンブリーです。
お客様のほとんどが、どちらがどっちなのか、よくわからないまま芝居が終わったのではないでしょうか。
もしそうなら、二人の演技は成功といえます。
二人の演技に不明なことが少しでもあれば、迷いが生まれ、必ず観客に違和感を抱かせてしまうからです。
演技者は、明確に演じました。
それに対して、ゴーリー的な意味不明感を加えて、原作のようにどのようにも解釈できる芝居に仕上げるのが、私の仕事でした。
このようにして、私は自転車パートを演出したわけです。
演出 石川哲次





